救いは恵みによって(5/6礼拝メッセージ)

「救いは恵みによって」(エルサレム会議 上) 使徒の働き 15:1-21 .

15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていた。
15:2 そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。
15:3 彼らは教会の人々に見送られ、フェニキヤとサマリヤを通る道々で、異邦人の改宗のことを詳しく話したので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。
15:4 エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行なわれたことを、みなに報告した。
15:5 しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである。」と言った。
15:6 そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。
15:7 激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。
15:8 そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、
15:9 私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
15:10 それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。
15:11 私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」
15:12 すると、全会衆は沈黙してしまった。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行なわれたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けた。
15:13 ふたりが話し終えると、ヤコブがこう言った。「兄弟たち。私の言うことを聞いてください。
15:14 神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。
15:15 預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。
15:16 『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。
15:17 それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。
15:18 大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。』
15:19 そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。
15:20 ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。
15:21 昔から、町ごとにモーセの律法を宣べる者がいて、それが安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」

 パウロとバルナバによる第一伝道旅行が終わり一段落がついた頃、アンテオケ教会に大きな騒動が起こります。エルサレムから来たユダヤ人クリスチャンたちが、「モーセの律法に従って割礼を受けなければ救われない」と教え始めたからです。彼らとパウロたちとの間に激しい論争が起こります。問題を討議するため、アンテオケ教会はエルサレム教会に代表団を送ることにしました。こうして、いわゆるエルサレム会議か開催されることになりました。

1.エルサレム会議
 a.神学的課題

 この会議には二つの課題がありました。一つは神学的課題で、人はいかにして救われるか、というキリスト教信仰の根幹にかかわる課題です。アンテオケ教会で論争の種を作ったユダヤ人クリスチャンは、救いは「キリストを信じる信仰+モーセの律法による」と主張しました。パウロとバルナバは、救いは「キリストを信じる信仰のみによる」と主張しました。

 このような神学的議論は、なにやら対立や分裂を生むのでよくないと思われがちです。確かに対立や分裂は避けるべきですが、それを恐れる余りなすべき本質的議論をないがしろにし曖昧にすると、いつしかその信仰共同体は瓦解してしまいます。

 b.教会的課題
 もう一つの課題は教会的課題です。神学的課題の克服に失敗すれば、初代教会は、ユダヤ人クリスチャン教会と異邦人クリスチャン教会とに分裂してしまう危険に直面していました。

 さらに、神学的課題で一致できても、それでだけでうまくいくほど事は単純ではありません。異なる文化・生活習慣でこれまで暮らしてきたお互いが、一つの信仰共同体を形成しようとしているのですから、信仰理解の一致とともに、きめの細かい配慮をしながら、丁寧に課題を乗り越えていく必要があります。

 ユダヤ人と異邦人には、文化・生活習慣に大きな隔たりがあったのですから、これはなかなか簡単ではありません。さらに、ユダヤ人には異邦人の文化・生活習慣に嫌悪感をいだく人が多いということが、さらに問題の根を深くしています。

 今日は二つの課題の内、神学的課題にスポットを当て、次週の説教で教会的課題に目を向けてみたいと思います。

2.救いに必要なものは
 a.エルサレムへ

 さて、話しを元に戻すと、アンテオケ教会から送り出されたパウロ、バルナバ一行は、その道すがら、異邦人伝道についてあかしをしながら進みました。それによって、多くの人々に喜びをもたらしました。日本人の目から見ると、会議に向けての根回しみたいに見えますが、そうではなく、パウロたちの働きが、そのままに報告され人々の喜びにつながっている、すなわち信仰ののみよる救いこそ、人々を真に解放し、喜びをもたらすものであった事実が示されていると見ていいでしょう。

 エルサレムに着くと、パウロとバルナバは同じように異邦人伝道の様子を詳しく報告しました。ところが、パリサイ派出身のクリスチャンは、割礼とモーセ律法の遵守を義務づけるべきであると主張しました。イエスを信じる信仰だけでは不十分で、ユダヤ人の文化・生活習慣を身に付けなければならい、との主張です。

 b.ペテロのあかし
  ・異邦人が救われた事実

 そこでエルサレム教会では使徒と長老、それにアンテオケ教会から来た代表団をメンバーとして会議を開催しました。激しい論争があったといいますから、丁々発止と言い合ったのでしょう。議論が一段落するとペテロが立ち上がり話し始めます。

 ペテロは、ローマの百人隊長コルネリオ訪問のいきさつ(使徒10章、11章参照)を思い起こさせて語ります。その時、エルサレム教会の人々は、ペテロが異邦人を訪問したことを非難したのでした。しかし、ペテロのあかしによって、神は割礼を受けていないコルネリオたちに聖霊を与え、信仰のみによって救われたことが明らかになりました。「神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり」とペテロが言うように、異邦人もユダヤ人も同じく信仰のみによって救われる、これが神によって定められた道であると、エルサレム教会はすでに神への賛美をもって確信していたはずなのです。

  ・追い切れなかった律法のくびき
 その原則は単に異邦人のみに適応されるものではありません。ユダヤ人自身も、信仰のみという原則に立ってきるはずなのです。

 ユダヤ人クリスチャンの一部が異邦人に余計な重荷を負わせようとしているが、それは実はユダヤ人自身も追い切れなかった重荷ではないか。そんなものを人に負わせることは、異邦人を苦しめるばかりか、自分に与えられた救いの恵みをないがしろにしてしまうことになるのではないか、とペテロは言うのです。

 c.ヤコブの解決案
 一同はここで沈黙してしまいました。それはペテロの言葉をしっかりと胸に受け止めたからでしょう。そこで、ヤコブ(おそらくイエスの弟)が立ち上がり、会議を結論へと導きます。ヤコブはペテロ(シメオン)の説明によって明らかにされた原則を、旧約聖書の引用によって裏付けます。ユダヤ人の希望の星ダビデの幕屋の再建が、異邦人の救いに結びいており、それは神の昔からのご計画によるものであると。

 救いの原則を確認した上で、ヤコブはユダヤ人クリスチャンへの配慮を、異邦人クリスチャンに求めます。これについては次週詳しく取り上げます。

3.ただ、恵みによって
 エルサレム会議の中心議題は、人はいかにして救われるか、という信仰の根源にかかわる問題でした。パウロやバルナバの実際の伝道活動のあかし、そしてペテロの体験によって、救いはイエスの恵みによるものであり、ただ信仰のみによって与えられるものであることが明らかにされました。それは、単にその意見に説得力があったとか、多数派であったとかいうことではなく、異邦人が恵みにより信仰のみによって救われたという事実を、神のなされたことと、衆議一決して受け止めたということです。

 わたしたちのなにがしかの働きや功績ではなく、ただ、神の恵みにより頼む信仰、神の恵みなくして、いえ、神の恵みによってのみ人は救われる、この信仰こそキリスト者をひとつにし力強めるものであり、すべての人に救いをもたらすものなのです。


「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」 ローマ3:23-24

posted at 2006/5/14

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